104_報恩寺閉山と法雲寺開山

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(4)報恩寺閉山と法雲寺開山

寛永中頃を過ぎると、さしも大騒動をした幕府の臨済宗叩(たた)きも一段落、ホッと一息ついた頃、京の本山から思いもよらぬ指令が報恩寺に届きました。
「此の度、故有って報恩寺を閉ざすより一同本山に引き揚げよ。委細は使者が申し聞かせる」
使僧の口上は要約すると

①報恩寺は七美領主山名氏の菩提寺になる。
②当主は熱烈な法華経信者ゆえ寺は日蓮宗に改宗される。
③本山と山名家の友好関係を損なってはならぬ。

になります。

報恩寺開山以来三百余年、護持してきた法灯ではありますが、本山(本寺)の命令とあらば遵守するしかありませんわねえ。

矩豊と竺翁の関係

なんでも三十年程前妙心寺に新しく出来た東林院は、山名禅高公の塔所(菩提所)で、住持の竺翁(とくおう、又は笠翁(りゅうおう))和尚は禅高公の孫にあたるとか、矩豊(のりとよ)公の従兄弟になります。前の妙心寺貫首鉄山宗純猊下と禅高公は親密な交際ぶりは今でも皆の記憶に新しいところです。ただ、引き揚げるについては、報恩寺三百年の足跡が後世まで伝わるよう配慮しなければなりません。そのへん、双方の思惑の一致を見るには相当の忍耐と努力が要ったことでしょうが、幸いにさしたる支障もなく、新旧交代の寛永十九年(一六四二)六月七日がやって参りました。
襖障子を取り払った本堂の外陣正面には烏帽子大紋姿の藩公と継裃(つぎかみしも)の重臣たちが重々しい面持ちで着座しています。端々の空き間や縁側には家中の諸士が、これも家格に応じて座を占めました。庭前の広場には一面蓆(むしろ)が敷かれ、領内の庄屋・名主の面々が苗字帯刀姿でぎこちなげに詰めています。

宝前(本尊前)に進んで報恩寺住持は、おもむろに祭文(法要の趣旨を述べた口上書)を読みあげました。

「・・・仏陀大悲ノ誓願ハ雨トナッテ大地ヲ潤ス。
 雨滴(うてき)集マリ流レテ池沼(ちしょう)ヲ作リ飛瀑(ひばく)ト化ス。
 姿変ルト雖(いえど)モ本性不変、共ニ般若ノ大海ヘ流入(るにゅう)スルノミ・・・」

心なしか声がうるんでいるようです。そりゃそうでしょう。営々として護り伝えてきたこの寺を他の宗派に譲るのですから・・・。
次いで登壇した日映上人は朗々と告げました。

「経ニ曰ク諸法ハ実相ナリト。
 己(おのれ)ヲタテテ他ヲ貶(けな)スハ修羅ノ業(しゅらのごう)、
 己ヲ空(むな)シュウシテ他ヲ容(い)ルルハ菩薩ノ行、
 然レバ則チ相支(あいささ)ヘ相助(あいすけ)ケテ
 共ニ乗(じょう)ゼン大白牛車(だいびゃくごしゃ)・・・。
 茲ニ愚衲(ぐのう)法華寺日映、浅﨟非器及バズト雖モ
 我ガ寺ノ開祖日源大徳ヲ勧請シテ法雲寺中興開山第一世ト仰ギ、
 自(みずか)ラハ其ヲ扶翼(ふよく)スルノ席ヲ汚(けが)サン」
このようにして、ご本尊様に寺の変革が奉告されたのでした。
さあ、こんどは皆が待ちがねている〈祝いの餅撒き〉です。係の数人が堂前にしつらえた櫓にあがるや、皆がワーッと総立ちして待ちかまえます。
「ドーン。」
合図の太鼓が大きく鳴りました。大櫃(おおひつ)に盛りあげた紅白の餅はまず筆頭家老によって投げられます。
「ドーン、ドンドン・・・」
奉行や物頭などの役付きのお侍さんが皆普段は見せないような笑顔で
「ソーレ、ソーレ・・・」
と、かけ声をあげながら、満遍なく行き渡るように撒きます。拾う方も大声をあげて立ったりしゃがんだり…。時ならぬ歓声が谷に響き渡ります。
こうしてめでたく引継の行事は終わりました。お宿に戻られ矩豊公はその日の日記にこう書き留められました。

「予、未ダカツテカカル面白キ景ヲ見タルコトナシ。
 家臣領民トモドモガ餅ヲ追ヒテ歓声ヲ挙グ。
 民政ノ要諦モマタ斯クノ如キカ。」

翌日――。

報恩寺の一行は村岡の地を離れました。郡境の八井谷(やいだに)峠までは有縁の人々が見送りについて行きます。報恩寺は民衆とあまり親密な繋がりを持ちませんでしたが、それでも開山以来三百年、その間に結ばれたご縁は切るに忍びないものがあります。峠まで三里(十二キロ)の間、送る者も送られる者も、言葉少なく足を運んだのでありました。


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2020年4月10日