204_日源・日映上人と矩豊公

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(4)日源・日映上人と矩豊公

さきの引継式で日映上人が宣言された〈勧請開山日源上人〉とはどのような方でしょう。この地の先生方も取り扱いかねてか、いい加減にして逃げて居られる程ですから、私如き素人ではどうする事も出来ません。
しかし、ここがスッキリしない事には法雲寺六百年の歩みが途切れてしまいます。何とかならないものか足掻く思いで居りましたら、ツイ先程の九月中頃(平成二十六年の)に思いがけないところから一冊の書物を頂戴しましてね。その中にお二人の事がキチンと収録されていたのです。
〈目から鱗が落ちる〉はこの事かと感動しました。(その経緯は「終の段」のところで触れますので、覚えておいて下さいね)

ご教示によりますと、日源上人は遠い昔、日蓮上人門下の高足の一方(ひとかた)であり、碑文谷(ひもんや)法華寺の中興にも大きく寄与されております。元々は『播磨の法印智海』と称しておられるところから推して〈西の比叡山・書写山圓教寺〉のご出身かと思われます。駿河国岩木山実相寺の学頭職に任じ天台の振起に勉めておられました。
時にたまたま招聘された日蓮上人の広範な学識や真理に直参する情熱に深く共感するところが有り、学頭と言う顕職を捨て去って、日蓮門下となり、名も日源と改められました。
この学頭と申しますと、今で言えば大学の学長に相当する役職ですから、既に行学ともに仕上がったお方です。それが開宗間もない日蓮門に参入して苦難の道を進まれたのですから以て師資(日蓮と日源)の求道精神の苛烈純粋さが窺えようというものです。
そうした日源師が縁有って江戸碑文谷の法服寺という、これも天台の古刹と結ばれたのです。
法服寺は平安の初め頃、慈覚大師によって開かれた関東天台の拠点でしたが、日源上人はこれを日蓮宗に改めて、寺号も法華寺として宗勢伸展に大きく寄与されました。
その法華寺の法脈が嫡々相承されて十六世を嗣がれたのが日映上人です。そして日映上人から法雲寺へと余流(支流の分流)が流れることになったのです。
ここのところを『七美誌考』では次のようにとらえています。

「現住日源丹州知山常照寺ノ徒弟ニテ常照寺末トナリ・・・
 寛永十九年壬牛六月七日領主山名豆州公仏参ノ折、
 現住日源ニ回向ヲ為スベシ旨、御意ヲ蒙ル・・・」

日映上人は法雲寺二世の座に就かれたとはいえ、本来の使命は関東における宗門全体の意思統一や幕府の宗教政策に対処するという高次元なものですから、法雲寺に住み込んでしまう訳にはいきません。おそらくは寺の移転やそれに伴う様々な仕事の段取りなどを次期住職と目されている弟子日清に言い置いて、早々に帰府されたものでしょう。そして、その後は寺の節目には下向するという、兼務の形をとられたかと思われます。
さて、日映上人と矩豊公の関係です。年表風にまとめますと、こうです。

慶長五年 一六〇〇 関ヶ原の戦い。山名禅高東軍に属す。
  六年 一六〇一 禅高、七美郡一円の所領安堵される。
元和六年 一六二〇 矩豊誕生。
寛永三年 一六二六 村岡山名氏初代禅高没。
  五年 一六二八 二代豊政隠居。矩豊(九歳)襲封(しゅうほう)。
交代寄合衆に列する。
  七年 一六三〇 豊政室(大沢氏)没。矩豊(十一歳)。
二代豊政没。
寛永十九年 一六四二 矩豊(二十三歳)、領国村岡へ初入部。
◎藩都村岡町造成。
◎菩提寺を法雲寺に定め、日蓮宗に改宗。
◎諸般の行政改革推進

これから見て、日映上人との出会いは、二代公御夫妻逝去の折であったかと思われます。その時公は山名氏第三世の重席についておられますが、何しろまだ十一歳の少年です。最愛の母公を亡くされた衝撃は如何ばかりだったでしょう。その悲しみが消えやらぬ一月後に今度は父君の二代公までがご他界という二重苦が押し寄せたのです。泣いて泣いて地団駄踏んでみても涙は止まりません。昼も夜も仏間に閉じこもって嗚咽の声をあげられるのも無理はないでしょう。はじめの内はお傳役(もりやく)の老人や、側用人などが入れ替わり立ち替わって、公を励まそうとしました。
「お上、お上はもうただの子どもではございませぬぞ。山名氏一門の頭領で御座いまする。己が悲しみは圧し殺して勇気を振るいなされ」
道理は分かっていても、どうなるものではありません。「―いっそ、予も死んでしまいたい―」
側近達は鳩首して相談を重ねました。
「もしも今、若殿の上に不幸が起こったなら、我が藩はお家断絶じゃ。何とかして立ち戻る勇気をつけてくださる良き人を探そうではないか。我等武骨な年寄共では埒があかぬわい―」
そう提案した傳役に心当たりがあったんでしょうね。一座それぞれが思いつくままに二~三の若侍の名を挙げてみましたが、どうも一長一短で相応しくありません。一座がまた沈黙しかけた時、「あの法華寺の日映上人は如何かな」
傳役の一言に皆はアッと声をあげて手をたたきました。
「そうじゃ、そうじゃ。あのお方なら二度のお葬儀やら、仏事(ほとけごと)でお世話になったが、お若いのに行き届いたお方じゃったのう。聞けば何でも次の貫首の後補じゃそうなが、お年も我が殿とはさほど違っては居られますまい。長男と末弟ほどの開きゆえ、打って付けのお方じゃぞ」
早速に用人と傳役(もりやく)が法華寺を訪ね、時の貫首上人に頼み込みました。委細を聞かれた上人にも異議はなく、日映上人もあの少年公子の恢復に役立つならば出来る限りのお手伝いをしましょうとなって、両者の間には師弟で有り、兄弟でもある信頼の種が蒔かれたのです。下山する傳役等と同道した日映上人は山名邸の仏間に入り、その日も籠もりっきりの若殿と対座しました。

『何をしに来たんだろう。また、予に泣くな歎くなナンテお説教をするんだろうが…』
そう構えなおした公に上人は膝をにじらせて進み出て、まだ少年そのものの小さな肩を抱き寄せまし。
「―泣きなされ。大声をあげてドンと泣きなされ…。そなたの涙がご両親への何よりのご供養ですゾ。」
思いがけぬ上人の言葉に公は呆気(あっけ)にとられて、上人の目を覗き込まれます。するとナント上人の両眼にもウッスラ涙が溜まっているではありませんか。
『アアーッ、上人も泣いて御座る。予の為に涙をお流しくださるとは、何という……』
公の感動は筆舌に尽くせるものではありません。両肩に置かれた上人の両の掌からもほのかな暖かみが公の心奥まで滲み込んでいきました。
この出会いを縁として、あれほど皆を手古ずらせた若殿の行状も何時しか沈静に向かったのです。
上人はまた機会をみつつ、仏様についての知識を初歩的なものから、だんだん高次元なところへと階程に従って公に授けられました。数年を経ずして公は日蓮門徒の証である〈日公〉の号を戴かれるほどの篤信者になっておられたのです。


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2020年4月12日