001_口上

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口上

 

法雲寺縁起
法雲寺縁起

「エエー今晩はようこそのお運びで…ありがとうありがとう、おかげさんでやつがれも八十八のこの歳まで、お十夜のお勤めさせて貰えて、結構な事ですワ」
「それでなあ。今回は前々から約束していましたこの寺の最初(はな)から今日までの足取りをお聞き取り願おう思てナ。去年から丸一年掛かってかってまとめたんだがコレ」(この小冊子をとりあげて皆に見せる)

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2020年4月7日

101_臨済宗報恩寺開山

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一の段、臨済宗報恩寺の時代

名 称 ○○山(受潤カ)報恩寺
所 在 但馬国七美庄下方未国名地内
(現兵庫県美方郡香美町村岡区村岡川上地区高堂)
本 寺 京都花園妙心寺微笑庵(みしょうあん)
特 徴 妙心寺荘園七美庄管理
開 山 妙心寺二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ )禅師
(微笑庵主( みしょうあんじゅ ))
時 期 永和元年(一三七五)―寛永十九年(一六四二)の二六七年間
本 尊 禅定の釈迦如来像

(1)臨済宗報恩寺開山

妙心寺は花園上皇が禅界の巨匠関山慧玄(かんざんえげん)禅師に命じて貞和三年(一三七二)に御所を改め禅苑とされた格調高い名刹です。その第二世を継がれた授翁宗弼(じゅおうそうひつ)禅師は山内に設けた微笑庵(みしょうあん)に拠って妙心寺一山の経営に当たられました。余談ですが、この授翁宗弼禅師は『建武の中興』で後醍醐天皇の側近として功労著しい藤原藤房(万里小路藤房・までのこうじふじふさ)のことで、故あって出家遁世(しゅっけとんせい)し、慧玄に就いたとされています。禅僧であるよりも経営の才能が秀れていたかと思われます。

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2020年4月7日

102_幻の寺『報恩寺』

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(2)『幻の寺』報恩寺

このように大きな使命を賜って発足した報恩寺ではありますが、以降近世に到るまでの二百五十年という長い間、どのようにしていたのか、何の記録も見当りません。
文化の後進地帯とされる七美の地でも僅かながら史書めいた文献があります。七美叢誌・田公退城 記・七美誌稿・七美史提要・但馬考などですが、そのどれにも報恩寺のことは片鱗すら載せていませ ん。ですから現に活躍中の地方史研究家各位もつい最近までこのことを全く知らずに過ごしてきたのです。

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2020年4月9日

103_元和の受難

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(3)元和の受難

報恩寺開山から二世紀ちかく経ち時代は近世に入りました。慶長八年(一六〇三)徳川幕府が成立しました。幕府は国内の平静を保つために既成の権力すべてを圧迫し、無力化をはかります。

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2020年4月9日

104_報恩寺閉山と法雲寺開山

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(4)報恩寺閉山と法雲寺開山

寛永中頃を過ぎると、さしも大騒動をした幕府の臨済宗叩(たた)きも一段落、ホッと一息ついた頃、京の本山から思いもよらぬ指令が報恩寺に届きました。
「此の度、故有って報恩寺を閉ざすより一同本山に引き揚げよ。委細は使者が申し聞かせる」
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2020年4月10日

201_山名氏について

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二の段、日蓮宗法雲寺の時代

名 称 受潤山 法雲寺
所 在 但馬国七美郡村岡町本町地内
本 寺 江戸碑文谷法華寺(現・天台宗円融寺)
特 徴 七美郡領主(幕府交代寄合衆山名氏)菩提寺
開 山 法華寺第十六世日映上人(勧請開山は法雲寺初代日源上人)*
時 期 寛永十九年年(一六四二)―元禄四年(一六九一)までの四十九年間
本 尊 禅定釈迦如来

*法華寺十六世・日映は、報恩寺を改宗し法雲寺を開くにあたり、法雲寺第一世の名を日映が信奉する法華寺一世の日源に冠して自身は法雲寺第二世と称した。

(1)山名氏について

はじめに山名氏の事について少し触れておきます。前章で言いましたように但馬国は室町幕府の初期以降守護大名山名氏の本拠で来たが、近世当初の東西対立で織田・豊臣勢に屈し家名断絶の憂き目を見ました。 続きを読む

2020年4月12日

202_山名氏菩提寺法雲寺

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(2)山名氏菩提寺法雲寺

菩提寺とはもともと信者の菩提(さとり)を促す為の精舎でしたが、だんだんに変化してきて施主家先祖代々の冥福を祈る為、お位牌を祀り供養を捧げる寺のことを指すようになりました。ですから、施主の居住する場所が代わると菩提寺も代わります。中には移動先まで菩提寺を移転する施主も有りますが、これは例外としましょう。 続きを読む

2020年4月12日

204_日源・日映上人と矩豊公

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(4)日源・日映上人と矩豊公

さきの引継式で日映上人が宣言された〈勧請開山日源上人〉とはどのような方でしょう。この地の先生方も取り扱いかねてか、いい加減にして逃げて居られる程ですから、私如き素人ではどうする事も出来ません。
しかし、ここがスッキリしない事には法雲寺六百年の歩みが途切れてしまいます。何とかならないものか足掻く思いで居りましたら、ツイ先程の九月中頃(平成二十六年の)に思いがけないところから一冊の書物を頂戴しましてね。その中にお二人の事がキチンと収録されていたのです。
〈目から鱗が落ちる〉はこの事かと感動しました。(その経緯は「終の段」のところで触れますので、覚えておいて下さいね)

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2020年4月12日

205_法雲寺移転事業

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(5)法雲寺移転事業

さあ、いよいよ寺の引っ越しです。それには先ず行き先の土地造成が先決ですから、藩の総力を二分して、陣屋と法雲寺の両方を同時に進めました。陣屋の方は村の中心部である野々上と呼ばれる台地を削るだけですが、法雲寺の方は湯舟川と中小屋川の合流点に出来た荒廃地を指定されていますので、寺域を取り囲む護岸工事を伴いますから、そう簡単には出来るものではありません 続きを読む

2020年4月12日