歴史沿革

報恩寺の建立

当山の草創は定かでは無いが、南北朝の頃(1350頃)にその端緒が認められる。
建武の中興に功あった藤原藤房が出家し法名を宗弼(そうひつ)と名乗り妙心寺へと入山、その後妙心寺第二世についたと言われる。当時、この地の多くが妙心寺の荘園となっており、宗弼はこの荘園に父母供養の願いを託して報恩寺と名付けた政所を建立し、荘園の管理運営に当たらせて居た。

荘園から村岡山名の領地へ

時代が室町から戦国時代へと移るにつれ荘園は弱体化し、江戸時代(1603)には当地を含む七美五郷[兎塚(うづか)・熊次(くまつぎ)・村岡・射添(いそう)・小代(おじろ)]一帯は山名氏の所領となり、藩の中心地を兎塚に据えた知行体制となった。

報恩寺から法雲寺へ

参勤交代制等江戸幕府の骨格が確立した寛永19年(1642)頃には、村岡山名三代矩豊公が藩都を兎塚より、小集落であった当地に移し、城下(陣屋)町・村岡の街作りを進めた。
また在地の荘園政所であった報恩寺(ほうおんじ)を法雲寺(ほううんじ)と改め、山名氏太祖義範公以来の宝牌を奉安し、山名氏の総菩提寺として定めた。

臨済宗から日蓮宗、そして天台宗へ

熱心な法華経信者であった矩豊公は、法雲寺の宗派を当初の臨済宗(妙心寺派)から日蓮宗へと改め、更に交代寄合衆という山名家の立場からか(不受不施派改宗との関連か?)、元禄4年(1691)に 天台宗へと改宗し現在へと伝わっている。

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