206_矩豊公と仏教美術

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(6)矩豊公と仏教美術

延宝二年(一六七四)に矩豊公は新しく二体の仏像を造顕されました。法雲寺御本尊の禅定釈迦像と観音堂本尊の聖観音立像です。ともに当代一流の仏師による入念作であろうことは素人の私どもでも推察出来るのですが、ヒョンなことから本尊仏の胎内銘が見つかりましてね。 続きを読む

2020年4月13日

207_梵鐘鋳造と銘文

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(7)梵鐘鋳造と銘文

貞享四年(一六八七)宿願の梵鐘が出来ました。元々の梵鐘は観音堂にあって、今もそれなりの使命を果たしているのですから、それを降ろしてくる訳には参りません。
そこで、三世住職の日清上人(何時、日映上人と代替わりされたかは不明)は新しく法雲寺境内に梵鐘施設を造るべく発願されました。 続きを読む

2020年4月13日

208_日蓮宗受難と天台宗改宗

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(8)日蓮宗受難と天台宗改宗

この日蓮宗は元々宗祖日蓮上人の独特な宗教観に依って創立した一宗ですから、他の諸宗とは随分宗風が違います。
その一つが「不受不施」(ふじゅふせ)という考え方です。これは法華経を信じない者には法を施さず、財を受けないという非常に厳しい掟です。上人はまた、当時の各宗に対して「念仏無限、禅天魔、真言亡国、律国賊」と批判し、これらを折伏(しゃくぶく)して自宗への転入をすすめました。
凡(およ)そ宗教なるものは、教祖の得た妙境に他者を誘引して集団を作り、それの拡大を願って、己が信条を説き弘めるのが常ですから、立教開宗と布教伝道は不可分の関係です。
日蓮宗のこの「不受不施」の精神は布教者の大命題となって後世まで強く影響しています。
文禄四年(一五九五)豊臣秀吉発願の方広寺大仏殿落成の際に仏教各宗の出仕を求めて「千僧供養」なる法要が営弁されました。祖師の遺訓からすれば「不受不施」ですから、関白と云えども未入信ゆえ、その招きに応ずる訳にはいきません。
といって、拒絶すれば国内最高権力者に盾突くことになりますから、どのような災難を蒙るやも知れず、宗内は二つに分かれて論争を繰り返しました。結局は、これに応じた「受布施」の面々は無事でしたが、不参加の妙覚寺日奥上人は寺を退去させられました。この大仏供養の事件は、その後ますます熱を帯び、宗門を二分する抗争を引き起こすことになります。

慶長五年 一五九九 大阪対論 日奥は自説を曲げず対馬へ流罪。
  十三年 一六〇八 慶長対論 浄土宗廓山に敗れる。
  十四年 一六〇九 慶長法難 敗者日経鼻耳を削がれる。
  十七年 一六一六 日奥赦免 妙覚寺に復帰。
寛永七年 一六三〇 身池対論 不受不施派敗れる。
寛文九年 一六六九 幕府、土水供養令発布。
幕府、不受不施派等請禁止令発布。
元禄四年  一六九一 幕府、悲田宗(不受不施派の別名)禁止と
悲田宗の受布施派への転入か、他宗への改宗を促す。

こうした対立が繰り返すごとに、幕府からの圧力が強くなってきます。幕府、宗教行政の狙うところは民衆に横の繋がりを持たせない為でしょう。先の《一向一揆》や《島原の乱》にしても、個々には弱い民衆が団結すれば思いがけない威力を発揮しますから、為政者としては未然に防ぐべく万全を期さねばなりません。
では、その頃、法雲寺の中興開山日映上人はどうしていらっしゃったでしょうか。幕府の申渡状から窺ってみましょう。

   申渡之覚
        小 湊 誕生寺
        碑文谷 法華寺
        谷 中 感応寺

右三ヶ寺事、先年証文仕候処に、今不受不施の邪義ヲ相立
悲田宗と号、宗門をひろめ候段不届ニ候、向後悲田不受不
施を改候て、受布施に罷成候か、又は他宗ニ罷成候共其段ハ
可任所存ニ候、自今已後悲田堅停止被仰付候間、急度相
改可申候、若於違背者、可為曲事者也、
未 四月二十八日

 

(大意)
右の三ヶ寺は、先年証文をささげたのに今なお不受不施の邪義を立て、悲田宗を号してこれを弘めておるが、不届きなことである。
これより以後、悲田・不受不施を改めて受不施になるとも、または他宗ニなるとも、それは心のままである。
今後、悲田派は堅く停止の命が下ったので、必ず改むべきである。
もし、これに違背すれば、それは心得違いというものである。

この詰問書に対する三上人の返事は次の通りです。

今度悲田不受不施御停止に付き拙僧共義
天台に改宗仕る可きの由御評定所において申し上
げ候ところ、三ヶ寺の義は元来法華の寺地に候間
寺は日蓮宗に御付けあそばさるべく候、しかしなが
ら拙僧共受布施にまかりなるべく候わば、そのまま
さしおかるべく候間、料簡つかまつり可申上之旨かさねて
これを仰せわたされ御慈悲のだん、有がたくぞんじたて
まつり、そうだんの上受布施に改派仕る可く候、しかれ共
末寺にまかり成(なり)候へば寺の格軽くなり可申義歎舗(なげかしく)
ぞんじたてまつり候間、受布施の触下(ふれした)に仰付られたく候やう
ねがひたてまつり候…
   ― 以下略―

 元禄四年未五月三日 感応寺 日遼
           法華寺 日附
           誕生寺 日映

寺社
    御奉行所

        (文中一部分をかな書きから漢字に直しました)

※この時点では、日映上人は小湊誕生寺(日蓮宗大本山)貫首の座に就かれている事が分かります。

こうして一応は収まったようですが、硬骨漢揃いの不受不施の面々はなかなかに転向の実を示しません。業を煮やした幕府は法華寺日附・感応寺日遼等八ヶ寺の上人を数十人の信者と共に伊豆諸島への流罪に処しました。この弾圧は長く幕府の定法となって受け継がれ、明治の太政官政府もこれを受け継いでおります。
元禄十一年(一六九八)法華寺は円融寺に、感応寺は天王寺と名を改めて共に天台宗となり、この大騒動は終息を見たのです。

法雲寺は日映上人・矩豊公によって碑文谷・法華寺末寺として中興した訳ですので当然、〈不受不施〉の寺であった事でしょう。幕府と不受不施派の対立が深まる一方、矩豊公のお役目は〈交代寄合〉という将軍お側のお立場です。不受不施の各寺院だけで無く、矩豊公自身の法華信仰も大きな転機を迎えます。


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2020年4月13日

301_法雲寺再中興

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三の段、天台宗法雲寺の時代

(1)法雲寺再中興

元禄四年(一六九一)矩豊公は法雲寺を天台宗に改宗される旨を発令されました。(下図・『祠堂状』参照)

祠堂状

矩豊公祠堂状

但州七味郡村岡縣法雲寺(考(亡父)豊政は法雲院殿と号す)は父祖祠堂の地なり。
初めは日蓮宗の道場と為るが、録を天台の派下に改めしむる。
是に於いて(山号を)新たに東林山養安院と号して、寺号は改めず。
すべては祖(祖父)・考(亡父)・妣(亡母)の謚(いみな・法名)より取る。
(祖父豊国は東林院殿と号し、妣大沢氏は養安院殿と号す)
これは則ち、追遠・報本の微意かな。
しかれども昊天は極まり無く、何ぞ徳への報いに足るや。
ただ、この記を以て不朽に備えるのみ。

従五位下行伊豆守源矩豊

元禄四竜次庚辛未冬十月日

当然、住職も新しく東叡山寛永寺から派遣された堯仙(ぎょうせん)法印です。
余談ですが、仏教では宗旨によって僧侶方への敬称が異なりますね。法印(ほういん)・和尚(お(か)しょう)・禅師(ぜんじ)・上人(しょうにん)・阿闍梨(あじゃり)など様々ですから、相手によって使い分けねばなりません。「お坊さん」と言えばどの宗旨にも通じますが、ボンサン・坊主などの蔑称を連想させますし、とかくややこしいものです。「お寺さん」ぐらいが無難なところでしょうか。

さて、さてここに掲げた文書(下図・『堯仙辞令』参照)は法雲寺再中興第一世堯仙法雲の住職辞令です。分厚い上質の檀紙と青蓮院流(お家流とも)の重厚な書体が宮様の権威を象徴しているかの如くです。

(大意)
但馬国村岡法雲寺 天台宗弘通の霊場 であるから、当住堯仙に限り木蘭色衣着用を許す。然れば令法久住、領主安全の懇祈に怠慢あるべきからずと、一品宮が思し召されている旨を下知する。

この色衣とは分限(ぶんげん)に応じて定められた色合いの法衣のことで、天台宗では緋・紫・松襲(まつかさね)・玉虫・木蘭の別があります。本来は当人の僧階によって変動するものですが、この頃は寺に付いて決まったていたようです。いずれにしても木蘭色衣とは赤がかった香色ですから宗門の中では下位に属する寺院ということなります。天台宗に属して日浅く僻遠の地にあって財政的にも十分ではないなどからの査定でしょうか。
このお下知(げち)を下された一品宮(いっぽんのみや)とは正しくは「輪王寺准三宮一品親王」のことで、一般には「上野の宮さま」として知られております。宗門からすれば天台宗総本山比叡山延暦寺の座主猊下(ざすげいか)であり、日光・上野両輪王寺門跡を兼帯される形になります。ご自坊は青蓮院や妙法院で役目終わればそこへお帰りになります。
なんで、法雲寺とは関係の無い話を持ち出したかと言いますすと、無関係どころか大いに関係が有るからです。まあお聞きくださいな。

時の宮様は霊元天皇第六皇子で妙法院から天台宗第百九十一世座主に昇られた堯延法親王のことです。宮様以前にも妙法院からお入りになりました宮様の何方かは『尭』の字を継承されていることからして、この字を許されることは余程宮様の信任が厚くなければなりません。
法雲寺の再中興初代尭仙法印もそのお一人でしょうが、木蘭色衣相当の低い寺格には過ぎたお方と申すべきでしょう。この破格の人事はさきの日蓮宗当時宗門きって名僧日映上人が終始撫育された寺であり、大檀越が名門山名氏であるところから、それに倣って寛永寺当局が配慮したものと思われます。
なお法雲寺の場合、寛永寺総本山と末寺との間にはワンクッションが置かれまして、これが市ヶ谷自証院です。このお寺は徳川三代将軍家光公のご息女自証院殿追善のために新たに開創された名門として有名です。そうしたことから、碑文谷法華寺に祀られていた山名二代公ご夫婦のお墓も自証院に移して奉祀されました。
その頃、幕府は大名家に江戸居住を義務づけていますので三百諸侯と言われる各大名は府内に菩提寺を求め自身や家族の追善回向を委ねました。もっとも当主の正式な墓所は本貫の地である国表の菩提寺に造り、それぞれ規準に従って巨大な墓碑を建立します。山名家も同様で、三代矩豊公から幕末までの八代は幅七〇㎝角・高二〇〇㎝の偉容を陣屋奥の壺谷御廟所にズラリと並べて奉安しておりますま。
また余談ですが、この御廟所を町教育委員が町文化財として認定しました。郷土の歴史を護り永世に伝えるいう結構な趣旨ですが、現状の変更は一切認めないということで、俗な言い方ですが、「金は出さないが、口は出す」ですか。イヤ失礼。


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2020年4月15日

302_矩豊公御逝去

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(2)矩豊公御逝去

この元禄四年(一六九一)といえば矩豊公もすでに七十一才の高齢です。普通ならばもっと早く引退して、悠々晩年を楽しまれるところですが、公は壮令の頃より嗣子運が薄く、何人か養子を迎えられるも早世が続き、この時点でもまだ後嗣が決まっておりません。
元禄七年になってようやく福島正則の曾孫を迎えることが出来て一安心、とはいうもののまだ後嗣は幼少ですから、早速世代を譲る訳には参りません。やはり老駆を押して登城し、交代寄合席最長老の重責を担っておられました。
時の将軍綱吉公は矩豊公の精勤ぶりを嘉(よみ)して特に「奥の間詰」として身近に控えさせて、時にお話相手をつとめる閑職に就けられました。そして、事あるごとにお手許の御用度品あれこれを手ずからお下げ渡しになっています。矩豊公にとっては、この将軍家の手厚い思し召しが余程ありがたかったとみえ、『山名家譜』に洩れなく書き留めておられます。

元禄四年 一六九一 御印籠・八丈嶋五反
五年 一六九二 御菓子・御羽織・御菓子・赤裏御袷
葵紋帷子・戻子肩衣五巻・御単物一ツ
御帷子二ツ・御菓子・明石縮五反
人参壱封・将軍直筆「孟子」像・同図像絵讃

かくして元禄十一年(一六九八)八月廿七日、七十九才の生涯を江府邸で終えられ、市ヶ谷自証院に葬られました。国許村岡では当然、公御自身が治定された壺谷御廟所に、所定の規格に従った〈大名墓〉が設けられています。(四十八ページの写真を参照下さい。)

壺渓御廟

壺渓御廟


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2020年4月23日

303_日映上人御遷化

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(3)日映上人御遷化

この歳(元禄十二年)法雲寺にとって今ひとり大切なお方を失いました。中興開山日映上人です。
上人が直々に足を運んでこられたのは、二回か三回、それもホンノ暫くの間でしたでしょうが、この五十年間いつも法雲寺のことをお忘れなく、後継の日清上人や矩豊公を通じて指示されております。
ご自身はそのころ日々険悪化する本山や幕府からの弾圧をいかにして防御するか腐心しておられただけに、このご遷化は痛恨の極みです。でもお陰を持ちまして、法雲寺の天台宗改宗を手始めに、法華寺感応寺も天台宗に改まることが実現しました。


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2020年4月23日

304_天台宗初期の頃

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(4)天台宗初期の頃

再中興尭仙法印以降の様子を略記してみましょう。

元禄四年 一六九一 天台宗改宗再中興、初代尭仙法印
宝永元年 一七〇四 二代智海法印晋山
 〃二年 一七〇五 三代全海法印晋山
 〃八年 一七一一 四代義辨法印晋山
寛保三年 一七四三 五代円澄法印晋山

この歴代の動静を見てまず気付くことは、二代・三代の在任期間が非常に短い点です。それと、両師共に『海』の字の法名であること。
そこから類推すれば、二人は寛永寺開山天海大僧正の法系であり、短期間法雲寺で住職体験を積むために寛永寺本山から派遣されたと見る事が出来ます。


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2020年4月24日

305_藩公菩提寺の格式

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(5)藩公菩提寺の格式

延享四年(一七四五)この年にはじめて村岡藩内における法雲寺の格式が定められました。

◎用人席出礼格
◎寺領百石
◎境内地千百八十坪

村岡藩が正式に立藩するのは明治太政官政府の時ですから、江戸時代は私称していたことになりますが、内外ともに〈万石大名格〉として容認されていますので、藩名を用います。
用人とは家老と共に君側(くんそく)に仕え諸事を差配する上級家臣の職名で、当藩の場合五家がこれに任じました。石高は百三十石から五十石まで。それに準ずるのですから、なかなかだったかの如くです。
例えばたまたま登城の時など、寺から陣屋まで五百メートル程しか離れておりませんが、やはり規定どおり、挾箱(はさみばこ)をかついだ小者(こもの)を従え、駕籠を用いたようです。
給与の百石ですが、大藩の場合ですと薄給になりましょうが、小規模な当藩ではこれで臣下の最高の給与です。
ではその百石高とはどれほどの経済価値をもつものか試算してみましょうか。
まず、単位が石ですからこれはお米の量のとこですね。一石の米とは四斗俵が二つ半。百石といえばその百倍になるが、俵の数でいえば二百五十俵、こりゃあたいそうな高給取りやと驚いていましたら、とんだ思い違いでした。

1石
1石=1斗缶10缶分 約180リットル
10石=1斗缶100缶分 約1800リットル分
100石=1斗缶1,000缶分 約18,000リットル分

正しくは、米百石を生産するの農地面積を指します。農業技術が今日ほども進んでいませんから、仮に一反(三百坪)当たり二・五石として、一町歩で二十五石、二町歩で五十石、四町歩で一〇〇石になります。こうした算定方法で実際に田地そのものを給される場合もあったようですが時代とともに簡易化して、江戸時代になると、これは帳面上の計算に過ぎなくなりました。

 

1歩・1坪 畳2条分(6尺(1.81m)平方) 3.3㎡
1畝 30坪 33㎡
1反 10畝(300坪) 990㎡
1町 10反 9900㎡

それはさておき、百石の禄高の実収といえば、

◎六公四民の割りで六〇石が藩、四〇石が受給者
◎藩財政へ協力名目で四割天引され、二十四石実支給

つまり、法雲寺百石は実際には二十四石となって、これだけは毎年間違いなく支給されておりますものの、実際の米価は年々に上昇しますから、寺院運営も並大抵ではなかったでしょう。(これに加えて仏餉田から収穫出来る十石程度と合わせて寺院を運営)


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2020年4月24日

306_藩公御霊屋建立

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(6)藩公御霊屋建立

藩公菩提寺としても最も重要な施設である御霊屋(おたまや・みたまや・ごれいや)一棟がこの延享二年(一七四五)に建立されました。方三間の土蔵造りで火難を避けるよう細心の工夫がなされています。内部は広狭の二間に仕切られていて、広い方にはご位牌、狭い方には御念持仏が奉安さました。本堂からは鍵の手に曲がった廊下伝いに行けましたから別棟ではあるものの、朝夕の献供に手間とることはありません。
これでやっと藩祖禅高公をはじめ歴代各公も御心を安(やす)んじ給(たも)うたことでしょう。


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2020年4月24日

307_本堂再建

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(7)本堂再建

宝暦十年(一七六〇)、時の住職泰侃法印の発願で、自分普請として本堂を再建されました。それまでの建物は、臨済宗時代に建てられたもので、日蓮宗時代に今の地に移されて百余年、きっと建造物の老朽化が目立ってきたのでしょう。住職の泰侃法印は当然藩当局に申し出たはずですが、藩財政に法雲寺再建の費用を負担する余裕が無く、「暫く待て」「もう少し待て」逃げ口上ばかり聞かされる始末、たまりかねた泰侃法印は、「では、野衲めが願主となりまして、何とか資金を募り法雲寺再建を果たしてみましょうぞ」
法印自身に財力がある訳はありません。実家が分限者でもないでしょう。無い無いづくしの中で有るのはただ一つ、「このご本尊様をお守りする為に私めは生かされているのだ」という強烈な使命感だけです。その熱誠がやがて藩公六世豊暄公に達し、御合力金の藩庫支出が実現したのでした。


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2020年4月24日