001_口上

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口上

 

法雲寺縁起
法雲寺縁起

「エエー今晩はようこそのお運びで…ありがとうありがとう、おかげさんでやつがれも八十八のこの歳まで、お十夜のお勤めさせて貰えて、結構な事ですワ」
「それでなあ。今回は前々から約束していましたこの寺の最初(はな)から今日までの足取りをお聞き取り願おう思てナ。去年から丸一年掛かってかってまとめたんだがコレ」(この小冊子をとりあげて皆に見せる)

「だいたいが、どこのお寺やお宮でも〈縁起〉チュウもんがあるもんですが、この法雲寺にはそれが御座いません。思いますのに、昔はたぶんあったんでしょうが、度重なる宗旨替えや、寺の移転、それに大火事などで消えてしまったんでしょうナ」
「それからもうひとつ。縁起なるものには大抵けったいな怪物が出てきて、有名な高僧や験者の教化で改心するというお噺になっていますね。また、それを絵巻物や掛軸にして説明してゆく〈絵説き〉にもなるんですが、法雲寺のはそれらと性格が違いますから、この点、当(あ)てにせんとって下さいよ。」

〈縁起〉といえば歴史の先生方は端から相手になさいません。有りもしないことをサモ事実めかしく言ったり、面白おかしく説いたりが特徴ですからもっともなんですが、一概に斬り捨てるのはどうでしょうか。例えば、行基菩薩や弘法大師を開山とするお寺は世に五万というほど在りますね。それを単に有名人の名を騙(かた)る詐欺師と見るか、それとも高僧に何等かの縁がある無名僧が、自らの努力で作りあげた新寺にお師匠様をお名前だけでもお迎えして、開山第一世の栄誉を回向(えこう)していたと見るかで随分評価が違って参ります。その実例がこの本の二の段で出て参りますから、そのときまた考えましょうか。

私などは一介の野衲ですから《歴史》などとは全く無縁にこの齢まで過ごしてまいりました。それが今『法雲寺縁起』なる一篇に立ち向かったのですから《身の程知らず》のお嗤いは当然でしょうが、せめてものことに《米老の気法楽》と許してやってくださいませんか。


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2020年4月7日