「エエー今晩はようこそのお運びで…ありがとうありがとう、おかげさんでやつがれも八十八のこの歳まで、お十夜のお勤めさせて貰えて、結構な事ですワ」
「それでなあ。今回は前々から約束していましたこの寺の最初(はな)から今日までの足取りをお聞き取り願おう思てナ。去年から丸一年掛かってかってまとめたんだがコレ」(この小冊子をとりあげて皆に見せる)
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101_臨済宗報恩寺開山
一の段、臨済宗報恩寺の時代
名 称 | ○○山(受潤カ)報恩寺 |
所 在 | 但馬国七美庄下方未国名地内 (現兵庫県美方郡香美町村岡区村岡川上地区高堂) |
本 寺 | 京都花園妙心寺微笑庵(みしょうあん) |
特 徴 | 妙心寺荘園七美庄管理 |
開 山 | 妙心寺二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ )禅師 (微笑庵主( みしょうあんじゅ )) |
時 期 | 永和元年(一三七五)―寛永十九年(一六四二)の二六七年間 |
本 尊 | 禅定の釈迦如来像 |
(1)臨済宗報恩寺開山
妙心寺は花園上皇が禅界の巨匠関山慧玄(かんざんえげん)禅師に命じて貞和三年(一三七二)に御所を改め禅苑とされた格調高い名刹です。その第二世を継がれた授翁宗弼(じゅおうそうひつ)禅師は山内に設けた微笑庵(みしょうあん)に拠って妙心寺一山の経営に当たられました。余談ですが、この授翁宗弼禅師は『建武の中興』で後醍醐天皇の側近として功労著しい藤原藤房(万里小路藤房・までのこうじふじふさ)のことで、故あって出家遁世(しゅっけとんせい)し、慧玄に就いたとされています。禅僧であるよりも経営の才能が秀れていたかと思われます。
102_幻の寺『報恩寺』
103_元和の受難
104_報恩寺閉山と法雲寺開山
201_山名氏について
二の段、日蓮宗法雲寺の時代
名 称 | 受潤山 法雲寺 |
所 在 | 但馬国七美郡村岡町本町地内 |
本 寺 | 江戸碑文谷法華寺(現・天台宗円融寺) |
特 徴 | 七美郡領主(幕府交代寄合衆山名氏)菩提寺 |
開 山 | 法華寺第十六世日映上人(勧請開山は法雲寺初代日源上人)* |
時 期 | 寛永十九年年(一六四二)―元禄四年(一六九一)までの四十九年間 |
本 尊 | 禅定釈迦如来 |
*法華寺十六世・日映は、報恩寺を改宗し法雲寺を開くにあたり、法雲寺第一世の名を日映が信奉する法華寺一世の日源に冠して自身は法雲寺第二世と称した。
(1)山名氏について
はじめに山名氏の事について少し触れておきます。前章で言いましたように但馬国は室町幕府の初期以降守護大名山名氏の本拠で来たが、近世当初の東西対立で織田・豊臣勢に屈し家名断絶の憂き目を見ました。 続きを読む
202_山名氏菩提寺法雲寺
203_山名氏霊牌
204_日源・日映上人と矩豊公
(4)日源・日映上人と矩豊公
さきの引継式で日映上人が宣言された〈勧請開山日源上人〉とはどのような方でしょう。この地の先生方も取り扱いかねてか、いい加減にして逃げて居られる程ですから、私如き素人ではどうする事も出来ません。
しかし、ここがスッキリしない事には法雲寺六百年の歩みが途切れてしまいます。何とかならないものか足掻く思いで居りましたら、ツイ先程の九月中頃(平成二十六年の)に思いがけないところから一冊の書物を頂戴しましてね。その中にお二人の事がキチンと収録されていたのです。
〈目から鱗が落ちる〉はこの事かと感動しました。(その経緯は「終の段」のところで触れますので、覚えておいて下さいね)