308_山名氏と神祇

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(8)山名氏と神祇

神明宮棟札

神明宮棟札

享和三年(一八〇三)八代義方公は氏神黒野神社に合祀されている神明宮を再建されました。別当職は九代秀辨法印です。初建の寛永十九年以降一六〇年ほど、まだ建て替えるほどの年数ではないでしょうに、たぶん雪害とか倒木などの災害によるものでしょう。
この神明宮は先の矩豊公が初のお国入りをされた寛永十九年に公の命令によって伊勢神宮から分祀され、本殿に向かって右に鎮座しています。そして、これも公の仰せで、黒野神社という社名も伊津岐(いつき)明神―イツキさんと呼びならうようになりました。神明も斉(いつき)も伊勢の別名だからです。
黒野神社としては《庇を貸して母屋を取られた》ですか。お宮の名称はともかくも、藩公の氏神社ということで七美郡の総社の格が得られ、明治政府の神社法でも「県社」という暦(れっき)とした格式で遇されるのですから満更でもない話ですわね。


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2020年4月24日

309_禅高公神号勅許

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(9)禅高公神号勅許

天保六年(一八三五)時の帝、仁孝天皇より藩祖禅高公に対する神号(権現号)を下附されました。世に謂う神号には『権現』(ごんげん)と『明神』(みょうじん)の二つでありますね。豊臣秀吉さんが「豊国大明神」(ほうこくだいみょうじん)、徳川家康公が「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)。
明神号は真言系、権現号は天台系ですが、これらは勝手に付けたのではなく、正当な手続きを経て、時の天皇から授与されるのです。もっとも後世になりますと、そんな決まりがあることも知らず「義民誰某(だれそれ)大明神」とか何かとで勝手に神号を使うことがありますが、それは別の話です。
で、この神号勅許の綸旨から私どもは何を読み取るできでしょうか。
◎何方から? 時の帝、仁孝天皇から。
◎誰に? (京都妙心寺)東林院住持→山名氏十代義問公に。
◎出願者は? 義問公→東林院→禁中へ。
これで綸旨拝領のルートは先ず間違っていないでしょう。
では、何故このような突飛な発想を義問公が起こされたのか。また、成功する見込みはお有りであったかどうか?舞台は一転して鳥取県倉吉市の打吹公園に変わります。

 

豊國禅高七味権現

豊國禅高七味権現事
所有勅請也殊専
神法紹隆可奉所
寶祚延長依
天気執達如件

天保六年九月七日
権右中辨花押
東林院御坊

豊國禅高七味権現

豊國禅高七味権現の事
勅を請うところ有る也、
殊には専ら神法を紹隆し、
寶祚延長を奉るべきところ
依って天気執達件の如し

天保六年(一八三五)九月七日
権右中弁 花押
東林院御坊

 

伯耆の国の中心都市として知られた小京都の町並みを見下すこの公園は元々、伯耆山名が根拠地として築き上げた打吹城の跡地です。その公園の西寄りの一角に楚々として静まります小振りな神社がありましてね。社名を磐代神社、祭神は光格天皇御生母大江磐代君(おおえいわしろぎみ)となっていて、話は佳境に向かってきたようですから、ここからは野衲如きよりも、村岡山名氏宗家第十四世晴彦公に辯士交代と致しましょう。


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2020年5月9日

310_悲運の駒姫と栄光の母磐代の君

 

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(10)悲運の駒姫と栄光の母磐代の君

〈特別寄稿〉秘話(歴史物語)ー悲運の駒姫と栄光の母磐代の君ー

村岡山名第十四代当主 山名晴彦

伯耆の国、注1打吹(うつぶき)城主、注2山名氏豊は注3吉川元春(きっかわもとはる)との戦い〔天正八年(一五八○)八月十三日〕に於いて無念の敗北を喫し、遂にその居城の打吹城を放棄し、再起を図るべく、部下数名の将兵とともに一族を頼って逃亡を続けたが、敵軍の探索は殊の外厳しく、遂に注4青谷荘、鳴滝村の山中に於いて、悲愴な最期を遂げ、これによりさしも一国の管領であった伯耆国山名氏は滅亡した(同、八月十五日)とされている。
ところが、これより先、氏豊は打吹城の落城を予期してその寸前にたった一人の愛娘を、予め懇意にしていた注5三明寺(さんみょうじ)近郊の農家に預け、その養育を託していたのである。そして、たまたまその農家は駒井姓を名乗っていたので、愛娘は人々から駒姫と呼はれるようになった。そしてその駒姫は長じるに及び世を忍ぶ為、殊更山名姓を名乗ることを避け、同郷の農家に嫁ぎ質素な生活に甘んじ、ひたすら討死した亡父や家臣の霊を慰めながら悲運の生涯を閉じたと言われている。

駒姫には娘があり、《りん》と名付けられていたが、さすがに血は争えぬもので、《りん》は生まれつき容貌殊の外美しく、又気高い気品を兼ね備え、更に英邁で理智に富んでいたので、当時の領主池田氏の家老、荒尾志摩守の家臣で倉吉に住む岩室(いわむろ)常右衛門宜休という武士に見染められた。しかるに当時の身分制度は特に厳しく、武士と百姓の娘との婚姻はご法度であった為、止むを得す常右衛門は武士を捨て、《りん》と共に京都に駆落ちしたのである。そして、当時有名な医師、馬陶賢の門下生となり、師の許で十余年の歳月をかけて医術を研鑽し、遂に医師として名をなすに至り、師より名前の一字を貰い受け、岩室宗賢と称するようになっていた。この間《りん》と宗賢との問には一人娘の《つる》が生誕(長じて《とめ》とも言う)しているが、これが後の世の《磐代》(いわしろ)の君である。
《つる》は十六才の時、父の岩室宗賢が医師として出仕していた禁裏御使番生駒守意の屋敷に行儀奉公に出たが、《つる》は生駒夫妻から実子の如く可愛がられ、行儀作法は勿論のこと、読書、書道、茶道、華道、料理、詩歌、絵画、舞踊等、女性としてのあらゆる教養を身につけ、稀に見る才媛としての誉れが高かった。たまたまこれが禁裏の女官、注6《長橋の局》の知るところとなり、特に乞われて《長橋の局》の屋敷に奉公することになった。
《長橋の局》は美貌と教養と理智に富んだ、《つる》を殊の外寵愛された。《つる》は《長橋の局》に奉仕することによって更に常識を広め、その上禁裏の作法、しきたり等をことごとく会得するようになり、《長橋の局》の信任は益々厚くなったと言われている。

当時、《長橋の局》の屋敷には注7中御門(なかみかど)天皇の皇女籌宮(かずのみや)成子内親王が度々遊びに来られ、《つる》の教養のある人柄と非凡な才能に魅せられ、すっかりお気に召されたが、籌宮が後に閑院宮典仁親王(かんいんのみやのりひと)の妃になられてからは、今度は宮家に参殿する身分になった。これは、《つる》が二十三才の時である。
閑院宮妃成子内親王はご病弱であった為か中々お子様かできなかった。そして、《つる》が二十七才の時に開院宮典仁親王から側室になるようお申し付けかあった。
《つる》はたとえ山名氏豊の末裔とはいえ身分の低い者が余りにも畏れ多いことなので固くご辞退申し上げたが、再三、再四のお申し付けがあったので、意を決し側室としてこ奉仕することになった。この時、《つる》は生駒守意の養女となって身分をととのえ宮家に参殿することになったが、宮家からは特別の思召しで注8《大江》(おおえ)の姓と《磐代》(いわしろ)という格調高い名を賜わっている。時に明和七年(一七七〇)のことである。
翌明和八年五月、閑院宮妃は病の為薨去、同年八月、《磐代》の君には目出度く第一王子ご出産、祐宮(さちのみや)と申し上げ、その後引続き注9寛宮(ひろのみや)をお生み申し上げている。

光格天皇

光格天皇

安永八年(一七七九)第百十八代後桃園天皇崩御、天皇にはお世継ぎの皇太子がおられなかったので注10皇室会議の結果、閑院宮の第一王子祐宮が皇位を継承することになり、翌安永九年(一七八○)、第百十九代の天皇として即位された。即ちこのお方が光格(こうかく)天皇である。
天皇は、御年僅か九才のご幼少であったので、閑院宮と関白太政大臣の藤原尚実郷がご後見申し上げているが、山名氏豊の末裔が天皇のご生母となったということは、山名氏一族として、これ正に栄光の極みと言わさるを得ない。

《磐代》の君は光格天皇ご即位のあと、閑院宮典仁親王と共に宮中に出仕、ご幼少の天皇のこ養育に専念したが、典仁親王薨去のあとは出家して蓮上院(れんじょういん)と称せられ、聖護院宮別邸て余生を送られた。文化九年(一八一二)逝去。六十九才であった。後世朝延から特旨を以て当時の臣下としては最高位の従一位が贈られたが、更に打吹公園内に磐代神社が建立され、神として祀られていることは案外世に知られていない。
光格天皇は日本の古典、漢書に精通、又書道を良くされ、儒学の精神に培われ、素朴で剛毅なご気性で稀に見る英邁なお方と承っている。ご在位三十七年で次の仁孝(にんこう)天皇に皇位を譲られたが、七〇才の天寿を全うされて、天保十一年(一八四〇)に崩御された。
この光格天皇のご体格と、ご気性が良く似ておられるのが、ご曽孫にあたる明冶天皇であると言われている。ちなみに明冶天皇のご幼少の頃の宮号は光格天皇の宮号と同じ祐宮(さちのみや)であった。

 

注1 山名時氏の長男、師義が築城したもので、現在は打吹公園として、倉吉市の象徴となっている。
注2 山名宗全の二男、勝豊の孫。
注3 毛利元就の二男、後の岩国城主。
注4 山陰本線浜村駅(特急)または青谷駅(普通)下車。青谷山名神社には山名氏豊が祀られている。
注5 倉吉市郊外、山名時氏の墓とその菩提寺山名寺がある。
注6 大典侍藤原保子の方、中御門、桜町両天皇にお仕えしている。出家して即心院と称せられる。
注7 第百十四代の天皇。
注8 平安時代、菅原氏と並ぶ学識ある者に与えられた名門の家柄。
注9 後の聖護院宮盈仁(みつひと)親王。
注10 有栖川宮、閉院宮、伏見宮、桂宮の四親王宮家で構成。
大江磐代系図

大江磐代系図

(全國山名一族会報・第三号より)


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2020年5月10日